
ドライブマイカー
ドライブマイカーという物語は、村上春樹著「女のいない男たち」に収録され、映画化もされたとても有名な作品だ。
「女のいない男たち」は短編集であり、一話一話がとても読みやすい。
この話は、全51ページだ。しかし、おおよそ51ページの満足度ではない。女という、謎の存在を中年の家福の視点からしっとりと読み解いた作品だ。
あらすじ
家福は俳優で、台詞の練習をするために舞台に出演するときは車を運転して仕事場まで行っている。ところが接触事故を起こし、運転免許停止となった。同時に検査で緑内障の徴候が見つかり、事務所からも運転を止められる。そこで自動車修理工場の経営者である大場が、運転手として若い女性を推薦してくれた。2日後、黄色のサーブ900コンバーティブルの助手席に乗り、女に近くを運転してもらった。女の名前は渡利みさきといった。みさきは翌日から家福の専属運転手となった。
家福は助手席に座っているとき、亡くなった妻のことをよく考えた。女優の妻は時折、彼以外の男と寝ていた。家福にわかっている限りでは、その相手は全部で4人だった。
首都高速道路の渋滞中、みさきは家福に「どうして友だちとかつくらないんですか?」と質問する。家福は「僕が最後に友だちを作ったのは十年近く前のことになる」と答える。
妻が亡くなって半年後、テレビ局で高槻という名前の俳優と顔を合わせた。家福の知る限りでは、高槻は妻が性的な関係を持った男たちのリストの末尾に位置していた。翌日、二人は銀座のバーに行き、友だちになった。以後、都内のあちこちのバーで酒を飲み、あてもなく話をした。
その夜二人は根津美術館の裏手の路地の奥にある目立たないバーで飲んでいた。高槻が話した言葉は、曇りのない、心からのものとして響いた。ほんの僅かなあいだかもしれないが、その隠された扉が開いたのだ。それが演技ではないことは明らかだった。それほどの演技ができる男ではない。
[wikipediaより拝借]
核と殻という概念
この記事では説明がしやすいので核と殻という概念を使う。
核とはその人の本心、本質の部分。殻とはその人の外側、他人と話すときに用いる人格としよう。
例えば家福は作中、妻の浮気相手と会話をするのだが、家福は浮気相手に浮気しているということを知っているということを知らせていない。これは家福の「妻の浮気相手をみてみたい」という核を「思い出話をしたい」という殻で覆っている。
みさきというキャラクターの役割

作品の3ページ目に登場するみさきというキャラクターは、家福の運転手として登場する。
私はこのキャラクターの役割を「女性不透明性の象徴」だと考えた。この作品は冒頭、家福の女性ドライバーへの不信感から始まる。しかしみさきというドライバーは何かが違う。
男物のジャケットで固められたみさきは運転をリラックスしながら、しかし集中して行うことができる。基本的に無口だが、時折その本心の片鱗を見せる。
ここでは、男物のジャケットはみさきの「仕事人間」という殻そのものとすることができるのではないか。
みさきは一般的な女性のイメージとはかけ離れている。ファッションや美容には無頓着だし、あろうことか時折雇い主である家福の質問に無反応という手段で返答をする。
そこだけみると全く女性らしくないどころか、若そうでもないイメージを持つことになるだろう。
しかしみさきは矛盾する要素も持っている。
まず、みさきは20代半ばの若い女性だ。カセットテープを珍しがったり、エイトトラックを知らなかったりする。家福が妻の浮気相手とセックスまでしていることを知っているにもかかわらず友達だったことについて、驚いて聞き返していたりもした。
みさきは殻におおわれてこそいるが、きちんと核がある一人の人間であり、20台半ばの女性なのだ。
みさきは心の奥底がみえそうで見えない。まさにそんな女性の不透明性を象徴しているキャラクターではないだろうか。
高槻というキャラクターの役割

高槻というキャラクターは主人公の妻の浮気相手である。家福とおなじ俳優で、とても明るい人物だ。核を殻で隠すのが苦手な人物と言えるだろう。実際、主人公が高槻と会話するシーンでは感情が全て顔に出ていて、口にはださないにもかかわらず、家福の妻に未だ心惹かれていることを、家福に見抜かれていた。
みさきとは対照的に感情を表に出しやすく、考えていることがわかりやすい。
家福は妻が何を考えているかを高槻を通して知ろうとしていた。核を知ろうとしていた。
そのため、妻の核を知るという物語上の都合で高槻はわかりやすく、殻の薄いキャラクターである必要があったのだ。
しかし、実際は高槻も妻の核に触れられたわけではなかった。高槻は妻の死を以て「どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むことはできない」という現実を知った。しかし、同時に「自分自身の心であれば、努力したぶんだけしっかり覗き込むことができる」という結論にもたどりついた。
家福は彼を懲らしめようとして会っていた。しかし、そこにいたのは家福自身と同じように、妻の殻の不透明性に触れられないことに悩み、そして成長する1人の男だった。
結局のところ、家福は殻を完全に取り払い、核を自分だけのものにすることは絶対にできず、それを求めてもただ悲しくなるだけだという現実を知り、憑き物がすとんと落ちたのだ。
みさきの母というキャラクターの役割

みさきの母親はいわゆる毒親とよばれるようなキャラクターだ。たった2ページしか登場しないキャラクターではあるが、個人的にはとても大きいインパクトがあった。
彼女には殻の描写が存在しない。そもそもの全体の描写が少ないというものもあるが、本作のキャラクターは全員もれなく殻をかぶっている。高槻でさえ、妻と浮気していたという事実を(成功していなかったにせよ)隠していた。
なぜこのキャラクターをこの作品に登場させなければいけなかったのか。おそらく彼女が意味するものとは「核を剥き出しにして他人と交流することの危険性」だ。
人間だれしも、どんな人に対しても思うことのひとつや二つはある。しかしそれをそのまま剥き出しにすると、当然他人を傷つける。実際みさきは、自分の母親が死んだ時、ほっとしたと言った。
他人の核に完全に触れるということはそれほどまでに危険なことなのだ。
家福は妻の核に触れようとしたが、もし触れられたとして、本当に幸せだったのだろうか。
この作品における、演技とは 演技とは、核を殻で覆うことの代表例である。
家福は仕事で演技をして、仕事が終わるとその殻をぬぐ。しかし、殻を脱いだあとの家福は殻を被る前の家福とは微妙に異なる。
家福は高槻との交流で殻をかぶっていたが、その殻は知らないうちに家福の核にも影響を与えていた。
演技とはまた、愛の一つでもある。
みさきの母は演技をしなかった。そのため、みさきは心に傷を負った。
家福は高槻に対して演技をした。そのため、高槻は家福に本心の一部を打ち明けることができ、救われた。
それは配慮であり、まさしく愛ではないだろうか。
人の核に触れるということ

これまで本記事では、「ドライブマイカー」という作品を通じて、核と殻という概念について述べてきた
人は潜在的に他人に殻に覆われることのない、核に触れることを求める。
家福は妻の核に触れることをもとめて、高槻に接触した。
しかしそれは危険性を孕んでいる。みさきの母は核を曝け出すことでみさきを傷つけた。
結局のところ、人の核に触れるということは本質的に不可能で、もしそれが可能だったとしても、傷つくだけなのだ。触れることを許されている核は自分自身の核だけなのだ。
高槻はそんな諦めにも似た、しかし前向きな結論を得た。
家福は殻越しながらもそんな高槻に影響された。
人は、演技をすることで殻を被りながら殻越しに他者と関わる。それは女性に限らず不透明なもので、不躾にその奥に触れようとしてはいけない。
しかし、殻越しの他者や殻そのものに核が影響を受けることはたしかにある。
核に触れようとすること、知ろうということは愛だが、一定の境界線を超えたらそこにあるのは暴力だ。両者ともに傷付くことになる。
この殻越しの愛の肯定、またそれを破ってしまった場合におこることこそがこの作品のテーマなのではないだろうか。
この作品には最後にこんな記述がある。
「舞台に立って演技をする。照明を浴び、決められた台詞を口にする。拍手を受け、幕が下りる。いったん自己を離れ、また自己を離れまた自己に戻る。しかし戻ったところは正確には前と同じ場所ではない。」